放送文化基金賞
ウクライナ取材4年目の現在地―カメラの裏側のテレビ人たち
第52回放送文化基金賞ドキュメンタリー部門 奨励賞&企画・制作賞
NHK チーフ・ディレクター 木村和穂

「これでは終われない」。第52回放送文化基金賞の贈呈式で、NHKの木村和穂さんはそう語りました。ロシア軍による占領下の実態に迫った『NHKスペシャル 臨界世界 戦慄の占領地 “ロシア化”の実態』で、番組はドキュメンタリー部門奨励賞、木村さん個人は企画・制作賞を受賞しています。
今回綴っていただいたのは、番組の舞台裏ではありません。照明マンのバドス、カメラマンのジーニャ。カメラの裏側にいる彼らは、国は違っても木村さんと同じ「テレビ人」でした。
焼け跡のじゃがいも料理
ウクライナに通うようになって4年。
負傷した帰還兵、未亡人、ロシア兵捕虜、ゼレンスキー大統領など、かれこれ数百人に会って、4本のドキュメンタリーを作った。
戦争前は、地球儀のどこにウクライナがあるかも怪しかった私なのに、いまやFacebookの友達の半分はウクライナの友人たちだ。
テレビの仕事は、人生を思いもよらなかったところに連れて行ってくれる。
* * *
ウクライナで初めて取材したのは、ロシア軍の戦闘機ミグが自宅に墜落し、火災で全てを失ったオレクシーさん一家だった。焼けこげたガレージの中で、6人家族が着の身着のままでしのいでおり、かける言葉もない状況だったが、家長のオレクシーさんは思いもよらないことを言った。
「うちは本当にラッキーだった。家族みんなが生きているんだから。」
そして、わざわざ日本から来てくれたのに、何のおもてなしもできなくて申し訳ないと、瓦礫を集めて作ったかまどで、じゃがいもを揚げて振る舞ってくれた。
「きっと再建して、次は本式のウクライナ料理を振る舞うから、また遊びに来てほしい。」
それからも、理不尽な目に遭った、数多くのウクライナの人たちに会ってきた。
しかし、誰一人として、「被害にあった可哀想な人たち」という枠組みに収まる人はいなかった。みんな力強さやしなやかさ、人間としての優しさをもった人たちだった。
あの揚げたてのじゃがいもが、私にとってのウクライナ取材の出発点だった。

ウクライナのテレビ人たち
ウクライナでの撮影は、いつも現地クルーたちと一緒だ。
正確に言うと、初めてのウクライナ取材のときは、スタッフも機材もすべて日本からだったが、2回目からはディレクターの私と、プロデューサーだけが日本から出向き、あとは現地でクルーを組むスタイルに切り替えた。国境越えを少しでもスムーズにする必要があったためだ。
初めは不安ばかりだった。
言葉の壁はあるし、撮影カルチャーも全く違うだろう。最悪の場合、すべて自分でカメラを回すことになるかもしれないと覚悟していた。
いざ蓋を開けてみると、杞憂だった。ウクライナと日本、国は違っても、私たちは同じテレビ人だったのだ。
ロケ車への荷物の積み方のお作法、出発前の「メモリーカードは持った?バッテリーはあるね?」の声かけ、カメラを載せたまま三脚を伸ばすときのカメラマンとディレクターの息を合わせた動き、ロケ終わりのコンビニ休憩。
さらには、「音声マンには寡黙キャラが多い」、というステレオタイプまでが共通していると判明したときには、みんなで笑いあった。

【カメラマンのドミトロ】撮影で各地を飛び回り、世界60カ国以上で撮影してきたが、戦争により出国できていない。「時差ぼけが懐かしいよ」と呟く。
【音声マンのヴォヴァ】映画とCMをメインとしてきたが、戦争で全ての撮影がストップした。お気に入りのアイテムは、巻きたばこ。「安いし、美味いんだ。」
【照明マンのバドス】気は優しくて力持ち。いてくれるだけで安心感のある、みんなの人気者。募金を集めて、前線の仲間にドローンを送る活動を続けている。
【ドライバーのニック】妻と息子は、国外に避難。「戦争が終わっても、妻と息子は戻ってこない気がするな。それはそれで人生だ。」
【コーディネーターのアンドリー】芸術を愛するジェントルマン。タフなネゴシエーターでもある。
【筆者】
* * *
テレビ制作者はみな自分の作った番組が放送されるとき、「この人はなんと言うだろうか」と反応が気になる存在がいるものだと思う。
私にとってウクライナのクルーたちがそうだ。彼らは戦争のある日常を生きる当事者でもあるし、一緒に取材をした仲間でもある。彼らが納得する水準になっているかどうかは、いつも気になる。
あるとき、セカンドカメラマンのマクシムに、完成した番組のリンクを送ったものの、感想が返ってこなかったことがある。
半年後キーウで再会し、みんなで食事をしたとき、何杯か呑んだ後でマクシムが私の席までやってきてこう言った。
「あの番組を見たあと、しばらくショックで何て言っていいかわからなかった。
自分たちがめちゃくちゃな状態を普通に生きていることが番組に映し出されていて、これが私たちの今の姿なのだと、初めて客観的に理解した。
私たちにとって必要な番組だった。」
ウクライナのクルーと一緒だからこそ実現できた取材は、いくつもあった。
当事者ではない日本の制作者だからこそ出来ることもある、と知ったのはこのときが初めてだった。
よりよいものを作る仲間として一緒に仕事ができることに喜びを感じる、というもう1つの共通項を私たちは見つけた。

右奥から2番目が松宮プロデューサー。左側手前から4人目が筆者。
照明マンのバドスと、レンタル機材店のコミュニティー
照明マンのバドスの話をしたい。チャーミングな人柄で、仕事も丁寧な、信頼のおける大切な相棒だ。
初めて一緒にロケに出た翌朝のこと。「これを使いなよ」とバドスが差し出してきたのはメモリーカード。前日の撮影で、私が日本から持参したカードの書き込みスピードが遅いことに気づき、上級グレードのものを持ってきてくれたのだった。
「せっかく撮影してもデータエラーが出たら最悪だろ?」
「本当にそうだ、命拾いしたよ」と礼を言うと、バドスは大げさなウィンクを返してきた。
撮影中、「もう少し光が欲しい」とジェスチャーで合図すると、了解の合図を得意のウィンクで返してくれる。撤収のときは重たい荷物を率先して運んでくれて、忘れ物チェックも欠かさない。ロケ後のディナーでは、「ウクライナに来たからにはこれを食べなきゃ」と、サーロと呼ばれる豚の脂の塩漬けを注文して、「サーロは、ニンニクをのせてホリウカ(ウォッカ)でやるのがいいんだ」と手本を見せてくれる。
早朝のドニプロ川を、一緒に散歩したこともあった。
ふと、戦争が終わったらやりたいことがあるとバドスが言った。
「東京マラソンを走るのが夢なんだ。こうみえても戦争が始まるまでは、結構真剣に走ってきた。いまは10キロ以上太っちゃったけどね。世界7大大会のうち4つは走ったので、あと3つ。」
そういって見せてきたのは、左腕に入った4本の輪っかのようなタトゥー。フルマラソンを走る度に、この輪っかを1本ずつ増やしてきたそうだ。
「いつか一緒に東京マラソンを走ろう」と、私たちは約束した。

実は、バドスの本業は、レンタル機材店のスタッフだ。
キーウには大きな機材店が2つあり、1つは映画寄りで、バドスがいる方はテレビ関係者が主に利用する店。置いてある機材は東京の機材店とほぼ同じだ。
違う点は、エスプレッソマシンとソファーと卓球台が置かれた居心地の良いスペースがあって、ロケ帰りのテレビ人たちが熱を冷ます居場所になっていることだ。
バドスはこのコミュニティーの管理人ともいえる存在だ。ある現場で人が足りないとなったら、空いている人と繋いであげたり、ロケ場所を探している人がいたら詳しい人に聞いてあげたりする。
ウクライナ取材では、このコミュニティーにずいぶん助けられてきた。
ロシア軍が敷設した地雷原を映した映像を探していたときのこと。バドスが仲間たちに聞き回ってくれると、「友達のカメラマンがいま兵士として前線にいるから、撮影してもらえないか頼んでみるよ」という人が見つかった。
1ヶ月後、送られてきた映像を見て驚いた。1カット長回しで、無数の地雷をなめるように捉えた完璧なドローンショットだったのだ。プロの仕事だった。撮影してくれた兵士は、「久しぶりにカメラマンとして仕事をしたぜ」と面白がってくれたそうだ。
番組の主人公となるジーニャとも、このコミュニティーのつながりで出会うことになった。
戦場のジーニャ
戦争が2年目に入った2023年の夏、ウクライナ軍は国運をかけた大規模反転攻勢を行ったが、ロシア軍の分厚い防衛ラインに阻まれ、作戦は失敗した。
第二次大戦以降、ヨーロッパで最大の地上戦となったこの戦いは、なぜ、どのようにして失敗したのか。
私たちは、そのことを現場の兵士の目線から描き出したいと考えていた。
しかし、主人公となる兵士が見つからない。
ロケバスでの私とコーディネーターの焦りを募らせた会話を聞いていたのだろう。機材を片付けているとき、「友達がいるんだけど、会ってみるか?」と、バドスが声をかけてきた。
* * *
サッカー中継を専門に仕事をしてきたというカメラマンのジーニャ。若い頃に軍にいた経験があったため、軍事侵攻が始まるとすぐ、予備役として徴兵された。
自分の人生で実戦を経験するとは想定もしていなかったから、ジーニャはこの機会に記録をしてやろうと、ビデオ日記を撮ることにしたという。
見せてもらった映像には、前線で塹壕を掘ったり、キャンプ用のクッカーで食事を作ったり、寝床のネズミを追い払ったりする様子が映っていた。
だが、初めのうちは熱心に撮影していたものの、2週間も経たないうちに映像はまばらになり、そのうち完全にやめてしまっていた。
地獄の日々のなかで、すべてにうんざりしたそうだ。
途絶えていたビデオ日記が再開されたのは半年後だった。
ベッドの上で点滴に繋がれ、力なく笑顔を作るジーニャの姿が映し出されていた。片腕は麻痺したまま、だらりと垂れ下がっていた。榴弾砲の破片が体を貫通していた。

バドスからは事前に、「ジーニャの気持ちの半分はまだ戦場にいて、民間人の生活にアジャストできずに苦しんでいる」と聞かされていた。気分の浮き沈みも激しいという。
無理をさせない方がよいかと迷ったが、彼自身が話したがっているというのでインタビューを撮ることにした。
* * *
撮影場所にやってきたジーニャは、ジーパンにパーカーとキャップで、撮影現場にいそうないかにもカメラマンっぽい雰囲気。マイクを仕込むと、こちらから促すこともなく、「ワン、トゥー、スリー」とサウンドチェックをしてくれた。その様子に私たちは和んだ。
「このまま撮影もやっちゃってよ」と冗談を言って、笑い合った。
しかし、いざインタビューを始めると、状況は一変した。
最初の一問を投げかけて以降、ジーニャはこちらに質問する隙を一切与えず、カメラのバッテリーが切れるまで、3時間ぶっ続けで語り続けたのだ。
語りながら、ジーニャはひっきりなしにタバコを吸った。
「夜中、向こうの塹壕から、あいつらの話し声が風にのって聞こえてくるんだ。」
そう言うと、目を見開いたまま、固まった。
声が、頭の中で再生されているようだった。
部屋には、鼻をつく強い体臭が充満していた。
バドスによれば、あれはアドレナリンの匂いだという。生きるか死ぬかの極限を経験した兵士たちは、みんなあの匂いがするのだと。
後日、ロシア兵捕虜を取材したときも、彼らからは同じ匂いがしていた。
ジーニャと出会ったことで、私たちは『戦場のジーニャ 兵士がみた“地獄”』という番組を制作した。

戦争4年目、バドスからのメール
戦争が始まって4年半が過ぎたが、いまだ終わりは見えない。現地クルーたちの状況も刻々と変化している。
何度も一緒にロケに行ったドライバーに、次の仕事を頼もうと連絡を取ったところ、「ごめん無理なんだ」と断られた。車が故障していると言ってみたり、別の仕事で忙しいと言ってみたり、理由が判然としない。
よくよく聞いてみると、ロケで長距離移動する途中に、軍の検問で徴兵される可能性が高いので、もうドライバーの仕事はしていないのだという。
5月、バドスから写真が送られてきた。どこかに向かうピックアップトラックの荷台にいて、軍服姿だった。
「撮影で前線に来ているのか?」
「いや、オフィシャルに徴兵されたんだ。」
バドスからはその後も、前線の塹壕の中や、後衛のキャンプと思しき場所から写真が送られてくる。
写真が送られてくるたびに、短く返事をする。
「元気なのかい? いまどこにいるの?」
「まだサバイブしてるよ。」
軍法に触れるからだろうか、どこにいるのかという質問はいつもスルーだ。
こうしたやりとりを繰り返しているうちに、もうお互い話すことはなくなってしまう。
写真を送ってくれても、いいねマークを返すことくらいしかできない。

先日、ロシア軍に占領された街で何が起きているかを描いた『戦慄の占領地 “ロシア化”の実態』を、放送文化基金賞奨励賞に選んでいただいた。
「久しぶりのいいニュースだ」と、クルーのみんなも喜んでくれた。バドスとも、久しぶりに会話らしい会話をすることができ、うれしかった。
戦争はいやおうなしに人々の人生を荒らす。
こんな愚かなことを止められないことが恨めしい。
テレビ制作者の責務として、人びとがこの戦争をどう乗り切っていくのか、見届けなくてはならないと感じている。
キーウでバドスと約束して以来、少しずつ走るようになった私は、気づけばもう4足以上のランニングシューズを履きつぶした。来年こそは、一緒に東京を走れるだろうか。
プロフィール

木村和穂(きむらかずほ)
2009年NHKに入局。ディレクターとして、『バリバラ』、『ドキュメント72時間』、『プロフェッショナル仕事の流儀』、『日本人のおなまえっ!』などを担当。2022年の軍事侵攻以降、ウクライナ取材を続けている。
NHKスペシャル『ウクライナ大統領府 軍事侵攻・緊迫の72時間』
NHKスペシャル『戦場のジーニャ』(ギャラクシー賞奨励賞)
NHKスペシャル『女性兵士 絶望の戦場』(ギャラクシー賞奨励賞)
NHKスペシャル『戦慄の占領地 “ロシア化”の実態』(ギャラクシー賞奨励賞、放送文化基金賞 ドキュメンタリー部門奨励賞・企画・制作賞)
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