ドキュメンタリー

南米移民を半世紀も追い続けたライフワーク―テレビドキュメンタリーの巨人・相田洋さんを悼む【後編】

鈴木嘉一(放送評論家) 

 1968年3月、「あるぜんちな丸」が横浜港から出航する際の光景(相田洋さん提供)
1968年3月、「あるぜんちな丸」が横浜港から出航する際の光景(相田さん提供)

国内だけではなく国際的にも、一人の制作者が同じ取材対象を50年間も記録し続けたドキュメンタリーがこれまであっただろうか。南米移民のその後を半世紀にわたって追い続けた『移住50年目の乗船名簿』(4回)は、2018年から2019年にかけてNHK・Eテレの『ETV特集』などで放送された。ほぼ10年おきに作られてきたこの「乗船名簿」シリーズは、NHKの看板ディレクターとして鳴らした相田洋さんのライフワークでもあった。後編では、この長期シリーズの軌跡をとおして相田さんを悼みたい。(ご本人以外は文中敬称略) 前編を読む

移住船に同乗し、10年おきに再会を果たす

1968(昭和43)年は明治維新と海外移住政策の開始から100年、ブラジル移民から60年という節目に当たった。その年の3月、南米定期船「あるぜんちな丸」が136人の移住者を乗せて横浜港から出航した。NHK教育局教養部のディレクターだった31歳の相田さんは、3歳上の益子(ますこ)広司(ひろし)カメラマン、音声担当者と同乗し、アルゼンチンのブエノスアイレスまで49日間の船旅を彼らとともにした。新天地にかける大家族や若夫婦、見も知らぬ夫に嫁ぐ花嫁らの希望と不安が交錯する90分のドキュメンタリー『乗船名簿AR-29』を作り、文化庁芸術祭奨励賞を受けた。この題名は船名の略称と第29次航を意味した。

船内では取材者と被取材者という立場の違いを越え、一種の連帯感が生まれるのは自然の成り行きだった。相田さんらは各寄港地で別れる際、南米各地に散る移住者たちから「10年たったらまた会おう」と声をかけられた。「必ず行くよ」と約束したとおり、10年後に再会を果たした。「行くたびに『また10年後に来いよ』と言われ、ライフワークになっちゃってね」と、そのつど番組にしてきた。

『移住10年目の乗船名簿』は1978年、『NHK特集』(N特)で放送された。1988年の『移住20年目の乗船名簿』前後編は、N特で最長の2時間10分という大作になった。30年目の1998年は、『NHKスペシャル』(Nスペ)の大型企画『マネー革命』の制作で忙しく、南米取材は翌年にずれ込んだ。『移住31年目の乗船名簿』は2000年にNスペで2夜連続、計2時間半の前後編として放送され、放送文化基金賞本賞を受けた。

断念した「40年目」、実現した「50年目」

理事待遇のディレクターだった相田さんはこれを最後に退職し、慶應大学環境情報学部教授に転じた。その2年後、フリーのディレクターとして再出発した。

「40年目」も当然作ろうと思い、NHKに企画を出したら通った。しかし、コンビを組んできたカメラマンが大病を患った。「益子さんと一緒の仕事なんで、別のカメラマンでやろうとは思わなかったね。2人で行くから、移住者たちもずっと取材に応じてくれたんですよ。それに、年老いたおふくろを介護しなければいけない事情もあったんで」と断念した。

「テレビ屋として『50年目』を最後の仕事にしよう」と思い、後輩の矢吹寿秀チーフプロデューサーを通じてNHKに提案すると、意外にも「Nスペでは難しい」とはねられた。『ETV特集』でなら成立しそうだが、南米取材はこの番組の予算ではとても足りない。矢吹の尽力により、4Kで撮影し、NHK・BS4Kでも放送することで制作費確保のメドがついた。Nスペとして採用されなかった理由について、本人は「旧来型ドキュメンタリーは要らない、ってことらしいんだよ」と多くを語らなかった。しかし、私は「この壮大な企画がNスペで放送されないなら、今のNスペとはいったい何なのか」と首をひねった。

原点はヒューマンドキュメンタリー『ある人生』

ここで、相田さんの足跡を振り返りたい。1936(昭和11)年、日本の統治下にあった朝鮮半島の全羅北道(現・韓国)で生まれた。一家は満州(現・中国東北部)に移り、日本の敗戦を迎えた。警察官だった父親が出征していたため、ソ連軍の侵攻、戦後の混乱と飢餓の中、母のフイは女手一つで3人の息子を守り抜いた。母子は日本への引き揚げ船に乗り込み、父親の実家がある新潟県の村にたどり着いた。相田さんが「乗船名簿」シリーズをライフワークとするのは、こうした外地生活と苦難に満ちた引き揚げ体験に根差していた。

早稲田大学法学部を卒業した1960年、NHKに入局した。1966年、札幌中央放送局から東京の教育局教養部に異動し、一人の人間を主人公にして社会を見つめる『ある人生』(1964~1971年)班に入った。この番組を開発した小倉一郎は日本初のテレビドキュメンタリー番組『日本の素顔』(1957~1964年)に携わり、「奇病のかげに」では熊本県水俣市で発生した奇病(水俣病)は水銀中毒の疑いがある、と早い段階で指摘した。相田さんにとって小倉は「師匠」であり、「人間をとおして社会を描く『ある人生』は僕の原点になった」と語った。そもそも、相田さんらが移住船に同乗したのは『ある人生』の取材がきっかけだった。別のテーマで岩手県を訪れた際、南米に移住し、「人種を超えた理想の村」を建設しようと同志を募っていた農民運動の元闘士を知り、『ある人生・移住』を作ったからだ。

移住者たちの有為転変を見つめる

「50年目」の南米取材班では、相田さん以外は一新された。若手の山浦彬仁ディレクター、カメラマン、4Kで撮った映像のデータを管理する専門家、現地コーディネーター、銃を所持するガードマンら8人だった。相田さんが19年ぶりにブラジル、パラグアイ、アルゼンチンなどを訪れた取材の旅は2018年5月から2か月近くに及んだ。2週間の国内取材の後、相田さんは東京・小金井市の自宅で3台のパソコンによる編集作業を始めた。半年がかりで完成させるまで、プールに通う以外はほとんど仕事部屋にこもりっきりだったという。完成した『移住50年目の乗船名簿』は2018年12月30日から翌2019年2月2日にかけて、Eテレの『ETV特集』で4回にわたり放送された。

相田さんは『移住50年目の乗船名簿』を自宅のパソコンを使い、半年かけて編集した(2019年撮影)
相田さんは自宅のパソコンを使い、半年かけて『移住50年目の乗船名簿』を編集した(2019年撮影)

番組は移住者たちの過去と現在の姿を組み合わせて構成された。10年、20年、31年、50年という歳月は人の容姿だけではなく、仕事と暮らし、家族、内面や人間性まで変える。その人生航路をたどる際、映像の記録は何と雄弁なのだろう。

満州から引き揚げてきた久保田忍(放送時83歳)は、一家を挙げてアマゾンの奥地に入った。ほかの入植者が切り開きやすい低木の地を選んだのに対し、久保田家は大木が生い茂る密林を選択した。開拓に苦労しても、土地は肥えていると判断したからだ。現地の労働者や農協には一切頼らず、自力でコショウ栽培に打ち込んだ。今はコショウやカカオ、アマゾンフルーツの畑や牧場、保安林など計1000ヘクタールの広大な土地を所有している。一方、新天地のドミニカ移住に失敗し、アマゾンで再起を図ろうとした夫婦はまた不運に見舞われた。コショウ畑を襲った病気で打撃を受け、現地で他界した。廃屋になったかつての家は人生の明暗を物語る。

相田さんはブラジルのトメアスで19年ぶりに久保田忍さん(右)と再会した(相田さん提供)
相田さんはブラジル北部のトメアスで19年ぶりに久保田忍さん(右)と再会した(相田さん提供)

夢の実現と挫折、転身、志半ばの死、日本への出稼ぎ……。出発点は同じだったのに、何が彼らの境遇と運命を分けたのか。相田さんが50人近い移住者たちの光と影を見つめてきたこのシリーズには、テレビの映像技術史も刻まれていた。白黒フィルムからカラーフィルム、ビデオ、ハイビジョンへと進化し、「50年目」は4Kで撮影された。

人生の有為転変をしみじみと感じさせるこのヒューマンドキュメンタリーは、庶民の群像劇を大きなスケールで描き、時代と人間の変化、国策と個人の運命、日本と南米の関係、国際経済の潮流まで浮かび上がらせた。日本の反対側に位置する国々で同じ時代を懸命に生きてきた人々への共感を込めて、「乗船名簿」シリーズを作り続けた相田さんの執念には脱帽させられた。放送人の会が主催する「放送人グランプリ2019」では、相田さんに特別賞が贈られた。こうした評価を受けてか、「50年目」は2019年6月、NHK総合で1時間に圧縮した「特別版」が放送されたのに続いて、BS1では「完全版」が3夜連続で編成された。

「乗船名簿」シリーズを作り続けた相田さんは、放送人の会主催の「放送人グランプリ2019」で特別賞を受賞し、スピーチした
「放送人グランプリ2019」で特別賞の受賞スピーチをする相田さん

記録者としてノンフィクションも手がける

「優れたドキュメンタリーの作り手は読み応えのあるノンフィクションも書ける」というのは私の持論だが、相田さんがまさにそうだった。取材班として『電子立国 日本の自叙伝』では全4巻、続編の『新・電子立国』では6巻、『マネー革命』では3巻を日本放送出版協会(NHK出版)から刊行した。さらに、相田さんは単著として2003年、「乗船名簿」シリーズを集大成した『航跡 移住31年目の乗船名簿』と、自分の制作手法を明らかにした『ドキュメンタリー私の現場 記録と伝達の40年』を相次いで出版した。

2003年刊行の著書『ドキュメンタリー私の現場 記録と伝達の40年』(NHK出版)では、自分の制作手法を明らかにした
2003年刊行の著書『ドキュメンタリー私の現場 記録と伝達の40年』(NHK出版)

2013年には、NHKスペシャル『“認知症800万人”時代 母と息子3000日の介護記録』が2夜連続で放送され、100歳の母を看取るまでの映像が反響を呼んだ。その2年後に刊行された『わが母 最後のたたかい 介護3000日の真実』も番組の書籍化だが、400ページを超える内容は母の介護だけにとどまらない。明治末期に生まれ、大正と“激動の昭和”、そして平成の時代を生き抜いた一人の女性のノンフィクションであり、家族の歴史を庶民の戦後史にまで昇華した筆力には敬服させられた。満州からの引き揚げについて、「混乱の飢餓大陸では、私たち3兄弟の誰かが残留孤児になってもおかしくなかった」と相田さんは書いている。

『わが母 最後のたたかい 介護3000日の真実』(2015年、NHK出版)
『わが母 最後のたたかい 介護3000日の真実』(2015年、NHK出版)

時は流れ、一人暮らしの母に認知症の症状が出てからは夫婦で通い、最後は同居に踏み切った。「目の前で起きていることは世界一長寿国の日常茶飯事。人類が経験したことのないことを今自分がしているのだ」と気づき、ビデオカメラで母の様子や会話を撮り始めた。粗相をした時の世話は最もつらいが、「ゴールデン・フェスティバル」と呼んだように、カラッとしたユーモアすら漂わせる。悪戦苦闘する描写はリアルで、ディテールも驚くほど細かい。ハウツー的な要素はもとより、仕事と介護の両立、家族や兄弟との協力関係をどう築くかという点でも示唆に富む。時代と人間を見つめる記録者の目があってこそ生まれた大著だ。

“生涯一ディレクター”で幸せだった

個人的にも、相田さんとはいろんなところで一緒になった。放送文化基金が20周年記念事業の目玉として1993年から隔年で実施した「テレビドキュメンタリーの企画選奨」では、選考に当たる専門委員を相田さんらとともに委嘱された。放送文化基金賞のテレビドキュメンタリー部門の選考でも、長いこと顔を合わせた。また、折に触れてインタビューに応じてもらった音声データは手元に残っており、いずれ活字にしたいと思っている。

相田さんは『移住50年目の乗船名簿』で、再会した移住者たちに「自分の人生をどう総括する?」「あなたは幸せだった?」と単刀直入に尋ねていた。「それなら」と本人に同じ質問をぶつけてみたら、「チョー幸せだね。だってさ、自分の仕事が好きで好きでというのは、人生の一番の幸せじゃないですか。番組作りは面白いもんね。ずっとディレクターでいられて、本当に良かったよ」。“生涯一ディレクター”は満面に笑みを浮かべた。

8月8日、東京都三鷹市の法専寺で営まれた告別式でも、最後に範子夫人がこうあいさつしていた。「相田は大動脈りゅうの手術をしてから数か月はつらい日々を送っていたと思います。けれども、相田はとても幸せな人生を送ったと考えています。自分の仕事をただの一度も嫌だと思ったことがないと申しておりました。長い年月では難しいことも悔しいこともあったでしょうが、それでもそう言えたのは幸せな人だなあと思います」。入り口には、取材先での相田さんを撮ったスナップや集合写真などが飾られていた。笑顔が多い。

テレビ番組作りは天職だったんだね、相田さん。合掌。

8月8日、東京都三鷹市の法専寺で営まれた相田さんの告別式
相田さんの告別式(2026年8月8日、東京都三鷹市の法専寺で)

プロフィール

鈴木嘉一(すずきよしかず)
放送評論家
元読売新聞編集委員。「放送人の会」の理事・大山勝美賞選考委員長。元放送倫理・番組向上機構(BPO)放送倫理検証委員会委員長代行。著書に『テレビは男子一生の仕事 ドキュメンタリスト牛山純一』(平凡社)、『大河ドラマの50年』(中央公論新社)、『脚本家 市川森一の世界』(長崎文献社、共著)、『桜守三代 佐野藤右衛門口伝』『わが街再生』(いずれも平凡社新書)など。

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