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NHKドラマの女性プロデューサーの先駆者──小林由紀子さんを悼む

鈴木嘉一(放送評論家)

2026年6月3日、小林由紀子さんが86歳で亡くなった。『おしん』『はね駒(こんま)』を送り出し、NHKで女性初の番組制作局長まで務めた人である。読売新聞記者時代から取材を重ねてきた鈴木嘉一さんが、生前のインタビューや2冊の著作、後輩プロデューサーの証言でその軌跡をたどり、小林さんの仕事と人となりを描いた。怒って帰った鶴田浩二を自ら迎えに行き、脚本家には「今度はいい男を書こうよ」と切り返す。逸話の一つひとつに、作り手であり続けようとした人の姿がにじむ。

NHKを自ら退職した1992年当時の小林由紀子さん

NHKで朝の連続テレビ小説(朝ドラ)の『おしん』や『はね駒』、銀河テレビ小説『たけしくんハイ!』などをヒットさせた小林由紀子さんが6月3日、肺がんのため死去した。NHKのドラマ部門で初めて女性のチーフプロデューサー(CP)となっただけではなく、女性で初の部長、初の番組制作局長を務めた。「一プロデューサーに戻りたい」と自ら退職した後は、フリーとして民放各局に活躍の場を広げた。NHKドラマの女性プロデューサーの先駆者として歩んだ軌跡をたどり、後進たちへのメッセージを伝えたい。なお、ご本人以外の敬称は略させていただく。

新米プロデューサーが『おしん』で大ヒット飛ばす

政財界から庶民までの間でこれほど大きな社会的反響を巻き起こしたドラマも珍しい。1983年度に放送された『おしん』は朝ドラ最大のヒット作だ。最高62.9%、平均52.6%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)という驚異的な世帯視聴率は、テレビ史上でも特筆される。

発端はその5年前にさかのぼる。人気脚本家の橋田壽賀子のもとに、高齢の女性からの手紙が届いた。小作農の貧しさ、身売りされた過去など「家族にも言えない」という悲惨な人生体験がたどたどしい字でつづられていた。橋田は特に「米一俵で奉公に出された」というくだりに胸を突かれた。「私たちの母親の世代はこんなにも苦労してきたのか。今の豊かな社会はこういう人たちの忍従と努力で支えられているのに、私たちはそれを忘れている。明治生まれの人がまだ健在のうちに書き留めておかなくては」という思いに駆られた。

「話が暗い」「明治ものは受けない」と断られ続けた企画に乗ったのは、NHKドラマ部の担当部長だった小川淳一。半年間の長さになっていた朝ドラの枠で1年間の放送が実現したのは、テレビ放送30周年を記念してのことだ。山形県の貧農の家に生まれ、苦労に次ぐ苦労の末、三重県でスーパーを経営する主人公は、それまでの明るくさわやかなヒロイン像とはほど遠い。病気の小川に代わって、新米のCPとして担当した小林さんは「相当暗い話で、しかも泣かせる。朝から見てもらうにはどうかな」と心配した覚えがある。しかし、ふたを開けたら子役の小林綾子が評判を高めた。

配役面では、その小林綾子と田中裕子、乙羽信子の3人が演じ分けるリレー方式も、新人を起用する従来のパターンを打ち破った。小林由紀子さんは読売新聞記者だった私の取材に対し、「明治、大正、昭和を生き抜いた庶民史として歴史的背景を整理したうえで作ったから、大河ドラマに近い。稲山嘉寛・経団連会長が言ったように『辛抱が美徳』と受け取られるとは思ってもみなかった。高年層に受けたのも意外でした。似た境遇の人が多いんだなと再認識しました」と振り返った。自分の企画ではなかったが、一躍その名を高めたのは間違いない。

10年たってようやく念願のテレビドラマ部門へ

小林さんは生まれも育ちも東京。医者の家系の岡本家で、姉と2人の兄のいる末っ子だった。白百合学園の高校と短大では演劇部活動に熱中し、1960年4月、テレビの本放送開始から7年たったNHKに入局した。短大卒では受験資格がなかったが、叔父のコネで何とか受けられた。前年の教育テレビ(現・Eテレ)開局に伴い、ディレクターとして150人が大量採用され、そのうちの約40人が女性で、多くは教育テレビ要員だったという。

ドラマ部門を志望していた小林さんはまずテレビ文芸部のバラエティー班に配属され、人気番組『お笑い三人組』などのアシスタントを5年間務めた。同じ職場にいた同期の女性3人は結婚などで次々にやめた。「女子校育ちだから、男性職員に対して競争意識を持たなくて済んだんです。次から次へと放送を出していかなきゃいけないので、同等というか、マンパワーとして一人前じゃないとね。男だ、女だって言っていられない状況でした」。放送人の会による「放送人の証言」でインタビューを受けた2018年当時、こう回想した。

次は、ラジオドラマ班で『日曜名作座』などを5年間担当した。ここではスタッフの半分が女性だった。その後、念願のテレビドラマ畑へ移り、制作補として初めて企画した連続ドラマが放送された。四代にわたる女系家族を描く橋田壽賀子脚本の『四季の家』(1974~75年)は、映画スターの京マチ子が主演し、赤木春恵らが共演した。小林さんは両親と3人暮らしだったが、このころ、難病のパーキンソン病を患っていた母に続いて父も亡くした。

名プロデューサーの下での修業時代

『NHK紅白歌合戦』の〝育ての親〟として知られた川口幹夫がドラマ部長に就くと、小林さんは制作デスクに抜擢され、後に名プロデューサーと呼ばれる近藤晋CPの下についた。川口は小林さんにとって「人生の師であり、父とも慕う」人で、NHK会長を務めた。近藤が開発した「土曜ドラマ」では、1976年からスタートした山田太一脚本の『男たちの旅路』が、脚本家の名前を初めて冠するシリーズとなった。東映のやくざ映画のスターで、NHKドラマ初出演の鶴田浩二が元特攻隊員のガードマンにふんし、若い世代との対立劇は大きな反響を呼んだ。小林さんは「鶴田番」を命じられた。

語りぐさになっているエピソードがある。革ジャンを着こみ、サングラスをかけた鶴田がNHKの西口玄関から入ろうとしたら、警護員に呼び止められ、なかなか通してくれない。業を煮やした鶴田は、タクシーでどこかへ消えてしまった。これを聞いた小林さんは鶴田夫人に電話をかけ、鶴田がいる赤坂のホテルに向かった。鶴田に会うと、「なんだ、あの対応は。俺のことを知らんのか!」と怒りをぶちまける。小林さんはウンウンと聞き流し、「ところで、きょうのリハーサルはどうします?」と尋ねた。鶴田は「行く」と答え、一緒にNHKに戻った。「私は一度も鶴田さんを怖いと思ったことはないんです。普通に話をして、あちらの話も聞いてあげる。私はすぐになじんじゃうんですよ」と回想した。

近藤CPは大河ドラマで発想を転換し、その領域を広げた。1978年放送の『黄金の日日』では、「日本が世界とかかわった節目の時代を為政者側からではなく、庶民の視点で描こう」と、南蛮交易で栄えた戦国時代の堺を舞台に選び、商人の呂宋(るそん)助左衛門(市川染五郎、現・松本白鸚)を主人公に据えた。1980年放送の『獅子の時代』は、「これまで幕末から維新までは描かれたが、明治時代はなかった。扱う時代そのものを開拓しよう」と明治を真正面から取り上げた。大河ドラマで初のオリジナル脚本を任された山田太一は会津藩と薩摩藩の下級武士2人(菅原文太、加藤剛)を主人公にして、明治の光と影を浮き彫りにした。

小林さんは2作とも担当し、苦労話は尽きなかった。「今でいうブラック企業そのもの。朝から晩までやることは山ほどあり、時間外労働は積もりに積もりましたが、近藤さんからプロデューサーにとって大切な企画力とキャスティングを学んだ」(「放送人の証言」)と言う。しかし、タイトルバックでプロデューサーの名前は表示されても、デスクの名前は出ないのは悔しかった。「いつかプロデューサーになって、見返してやろう」と胸に刻んだ。

女性の社会進出をテーマにした『はね駒』

1981年、CPに登用された小林さんは『おしん』の前後、夜9時台の帯ドラマ「銀河テレビ小説」を担当した。この中から、人気上昇中のお笑いタレントだったビートたけしの原作を基にして、東京の下町で過ごしたたけしの少年期を描く『たけしくんハイ!』とその続編などのヒット作が生まれた。たけしの父親役の林隆三はともかく、母親役に木の実ナナを選んだ配役は周囲から異論が起きたが、結果は上々だった。

企画から配役まで満を持して手がけた朝ドラが、1986年度前期の『はね駒』だった。斉藤由貴が演じたヒロインは明治時代に女性新聞記者の草分けとして活躍し、平均視聴率が40%を超えるヒットを飛ばした。母親役の樹木希林は、新境地を開いた演技で芸術選奨文部大臣賞を受賞した。寡黙な元武士の父親役の小林稔侍も注目され、ヒロインの夫にふんした渡辺謙は翌年の大河ドラマ『独眼竜政宗』の主役に抜擢された。俳優のそれまでのイメージをひっくり返し、新しい魅力を引き出す配役は光った。

1986年は男女雇用機会均等法が施行され、女性の社会進出とともに仕事と家庭の両立はこの朝ドラのテーマだった。明治の〝男社会〟を駆け抜けた女性の一代記には、小林さん自身が重ねられていたのだろう。「自分の生き方に即して作らないと嘘になっちゃうと思うから、わりと家族ものが多かった。家族や祖父母の話は自分の引き出しの中にたくさんありました。そこから私の色が出てきたかな」(「放送人の証言」)。斉藤由貴とは1988年放送の『とっておきの青春』でも組んだ。緒形拳が演じる父親と娘を軸にしたホームドラマで、1回目の放送を見た姉からは「あなた、自分の話をドラマにしてるんじゃないの」と電話がかかってきたそうだ。

『はね駒』を担当した脚本家の寺内小春とは続いて、頑固なすし屋の親方を主人公にした『イキのいい奴』(1987年放送)でも一緒に仕事をした。「水曜ドラマ」という新しい連続ドラマ枠の第一弾として、寺内に話を持ちかけると、「『はね駒』は1年近くかかった。ようやく書き終えた私がなんでまた書かなきゃいけないの!」と怒られた。小林さんが「寺内さん、今まで女はたくさん書いてきたから、今度はいい男を書こうよ」と切り返すと、寺内はプッと笑って、引き受けた。いいプロデューサーはとっさに、人を口説き落とす「殺し文句」が出るものだ。主演の小林薫のイメージチェンジにつながった起用も特筆されよう。寺内はこの作品などで向田邦子賞に輝き、翌1988年には続編が作られた。

小林さんが当時、「お客さんとキャッチボールをしながら作れるのが、連続ものの面白さ」と語っていたように、いずれも大衆の支持、平たく言えば一定以上の視聴率を期待される連続ドラマ枠だった。『おしん』も含めたこれらのヒット作に共通していたのは、ひと昔かふた昔前の時代を背景にして、庶民的な世界を描いたことだろう。そこには、現代人が失ってしまった親と子、夫婦、隣近所の濃密な人間関係があり、美徳があった。過去を鏡にして、現代と現代人を映し出そうとしたのではないか。

「一プロデューサーに戻りたい」と自ら退職

1988年の夏、小林さんは1990年に放送される大河ドラマのCPに指名され、紀州を舞台にした企画の準備を進めていた。しかし、制作発表を控えていた1989年の新年早々、上層部から「それでは視聴率が取れそうにない。白紙にしろ」という指示が下りてきた。急きょ西郷隆盛と大久保利通の両雄を描く『翔ぶが如く』が最有力候補に浮上し、原作者の司馬遼太郎の許諾を得た。制作の準備に当たっていた小林さんは突然、「庶務担(当)」と呼ばれる部長の補佐役を命じられ、プロデューサー業務から外れた。局内でいう「行政職」の道であり、島桂次会長の女性登用策の流れの中、これが翌1990年のドラマ番組プロダクション(現・ドラマ番組部)部長、さらには1991年の番組制作局長就任につながった。

しかし、局長に昇進して1年後の1992年春、「一プロデューサーに戻りたい」と退職し、フリーとしてドラマの企画・プロデュースをする道を選んだ。『ドラマを愛した女のドラマ』(1995年刊、草思社)という自伝的な著書で「私の頭の中には、行政職をやりたいとか、まして偉くなりたいなどという野望はこれっぽっちもなかった。お粗末なくらい人事の運びが読めていなかったのだ。よしんば読めていたとしても、行き着くところが局長であると、私でなくても誰が予測しえただろう。プロデューサーが天職だと思い始めていた私にとって、不幸としか言いようのないこの事態」と書き、「NHKはやはり私の使い道を誤った」という一節に万感の思いを込めた。

退職後は「リスプラン」という個人事務所を開設し、民放各局に企画を売り込んだ。独立後の第1作は、1993年にフジテレビで放送された『これから~海辺の恋人たち~』だった。名コンビを組んできた寺内小春が脚本を書き、高倉健が田中裕子と共演したこのスペシャルドラマは、日本民間放送連盟賞でテレビドラマの最優秀に選ばれた。

高倉との縁は、彼がNHKドラマに初出演した山田太一脚本の『チロルの挽歌』(1992年)がきっかけだった。気心の知れた山田から「健さんに出てもらいたいので、何とか口説いてほしい」と頼まれた。『はね駒』でブレイクした小林稔侍に橋渡しをしてもらい、都内のホテルで一対一で会い、企画意図を代弁した。「稔侍さんは東映時代から健さんと親しかった。私がどんなプロデューサーか、いろいろ褒めてくれたんでしょう。健さんからはすぐにOKの返事が来ました」。NHKを辞めてまもないころ、高倉は「小林さんが民放で仕事をするなら、その第一作は自分が出ます」と申し出たそうだ。

樹木希林とのコンビも続いた。関西テレビ制作、フジテレビ系の「花王ファミリースペシャル」の枠で1994~96年、断続的に放送された『鬼ユリ校長、走る!』は、岩手県花巻市の小学校を舞台にして樹木が校長役で主演し、計10作を数えた。テレビ朝日でも灰谷健次郎原作の『天の瞳』シリーズを手がけ、名プロデューサーとして鳴らした近藤晋と同様、その手腕は民放でも通用することを実証してみせた。

小林さんは独立後の1995年、相次いで著書を出した。エッセイ集の『あま噛み』(世界文化社)と前述の『ドラマを愛した女のドラマ』は、いずれも達者な文章で読ませる。本稿の事実関係の多くはこの2冊で裏付けを取っている。

1995年に刊行したエッセイ集『あま噛み』(世界文化社)
同年刊行の自伝的な著書『ドラマを愛した女のドラマ』(草思社)

〝ドラマを愛した女のドラマ〟の最終章

前・世田谷パブリックシアター劇場部長の小林千洋(ちひろ)はNHKのプロデューサー時代、阪神・淡路大震災からの復興をテーマにして原田夏希が主演した2004年度後期の朝ドラ『わかば』や『茂吉の事件簿』『五瓣(ごべん)の椿』などの時代劇を手がけた。『おしん』の演出陣に加わったころは、最も若手のディレクターだった。『おしん』の放送が終わった後、由紀子さんは演出陣の二番手を務めた小林平八郎と結婚した。同い年の44歳で、初婚同士だった。『おしん』のスタッフたちは毎年、この初回が放送された4月4日に集まる会をずっと開き、コロナ禍の年を除き2022年まで続いたという。

『おしん』のスタッフたちが集まる会に参加した小林平八郎・由紀子夫妻(2015年、小林千洋さん提供)

由紀子さんは結婚してからも旧姓の「岡本」を通した。今から思えば夫婦別姓の走りだったが、部長になったころ、戸籍名の「小林」を名乗ったという記憶が私にはある。ある日、ドラマ部門の大部屋を訪れ、彼女と顔を合わせると、真っ黒だった髪がほとんど白髪になっていた。思わず驚いた顔をしたら、小林さんは「もう髪を染めるのはやめたの」と事もなげに言った。部長というポストに座るうえで覚悟を示したのかもしれない。

「周囲の人は由紀子さんのことを『男っぷりがいい』と評していました。生きがいいとか、気っぷがいいという意味です。女性のCPは男性たちの何倍もプレッシャーを受けたでしょうが、女性としての魅力を放ちながら、シャキシャキと仕事をこなし、決断も早かった。タバコを吸い、お酒も飲み、みんなとよく議論しましたね。『いいものはいい、悪いものは悪い』とはっきりものを言い、『あとは千洋が決めてね』と任せてくれた。責任感の強い管理職として頼りがいがありましたよ」。小林千洋の人物評だ。

そんな彼が由紀子さんの死を姪から知らされたのは近親者による葬儀などすべてが終わってからで、7月下旬に公表した。由紀子さん夫婦に子供はなく、夫の平八郎は2019年に先立った。小林千洋が姪から聞いた話によると、由紀子さんはずっと能に打ち込んでおり、昨年末も舞台に立った。今年に入ってから病院の検診で末期がんと告知され、後事を姪に託した。姪は「戒名も墓もいらない。夫と同じく、海に散骨してほしい」との遺志に従ったという。小林千洋は「平(へい)さんは男気があって、気っぷのいい人でした。由紀子さんは平さんにならったんでしょう」と2人の先輩を偲ぶ。

女性の先駆者たちの努力と苦闘

テレビドラマの女性プロデューサーの先駆者といえば、真っ先にTBS出身の石井ふく子が挙げられる。単発ドラマ枠だった『日曜劇場』を「ドラマのTBS」の看板番組に育て、『ありがとう』シリーズや橋田壽賀子脚本の『渡る世間は鬼ばかり』シリーズなど数々のホームドラマのヒットメーカーとして名高い。何と9月に100歳を迎える今も現役を通している。1953年に初の民放テレビ局として開局した日本テレビでは、新卒の1期生であり、ドラマの女性ディレクターの第一号だったせんぼんよしこが活躍した。草創期の看板番組『愛の劇場』や文化庁芸術祭大賞受賞作の『ああ! この愛なくば』などで演出一筋を貫いた。

NHKのドラマ部門ではある時期まで、「朝ドラは主婦層を中心とした女性向け、大河は男性向け」とされてきたが、大河ドラマにも女性の作り手が進出している。元NHK放送博物館長の浅野加寿子は2002年放送の『利家とまつ~加賀百万石物語~』で制作統括を担った。女性が大河ドラマの制作統括を任されるのは初めてだった。紫式部を主人公にした2024年の『光る君へ』では、中島由貴が女性初のチーフ演出を務めた。また、幕末の幕臣・小栗忠順(松坂桃李)を主人公とする2027年放送の『逆賊の幕臣』では勝田夏子、同じく幕末を時代背景にして、土佐出身のジョン万次郎こと中濱万次郎(山﨑賢人)の生涯を描く2028年放送の『ジョン万』では、家冨未央が制作統括を担当する。いずれも主役は男性であり、大河ドラマの制作統括はジェンダーを超え、能力や人物、企画本位で指名されるようになった。先駆者たちの努力や苦闘を経て、時代もテレビの制作現場もここまで進んできた現状を物語る。

放送人の会の「放送人の証言」でインタビューに応じた小林さん(2018年、放送人の会提供)

小林さんは「放送人の証言」のインタビューの最後で「これからのドラマへ一言」と問われ、こう望んだ。「作っている人の人生を懸けてほしいんです。私は私で、いろんなものを背負い、それをドラマに込めてきました。今のテレビドラマを見ていると、制作現場の人が作りたくて作っているというより、誰かに作らされている気がします。身の丈に合ったドラマ、自分自身が違和感のないドラマを作ってほしいですね」と。

テレビを取り巻く環境がどんなに変わっても、優れた先達のメッセージは色あせないだろう。

プロフィール

鈴木嘉一(すずきよしかず)
放送評論家
元読売新聞編集委員。「放送人の会」の理事・大山勝美賞選考委員長。元放送倫理・番組向上機構(BPO)放送倫理検証委員会委員長代行。著書に『テレビは男子一生の仕事 ドキュメンタリスト牛山純一』(平凡社)、『大河ドラマの50年』(中央公論新社)、『脚本家 市川森一の世界』(長崎文献社、共著)、『桜守三代 佐野藤右衛門口伝』『わが街再生』(いずれも平凡社新書)など。

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