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読む・楽しむ 放送文化基金賞特集
放送文化基金賞の受賞者へのインタビュー、対談、寄稿文などを掲載します。

2023年10月2日
第49回放送文化基金賞

寄稿

放送文化

いつもあなたのそばに
~コミュニティFMの誕生、そして未来へ~

FMいるか 宮脇 寛生

宮脇寛生さん(贈呈式にて)

 FMいるかは「函館山ロープウェイ」の新規事業として1992年に誕生。国内第1号として日本のコミュニティFM界を先導し、常に後続局の模範となってきたことが高く評価された。
 FMいるか局長の宮脇寛生さんに、開局から現在までの苦労や今後の展望について寄稿していただいた。

パイオニアとしての苦労

 「はじめまして!FMいるかです。たった今、この街に誕生しました。これからいろんな冒険に出かけます。でも、生まれたばかりで上手に泳げません。あなたの心のドアをノックしましたら、どうか、やさしく、あたたかく迎えてくださいね」。1992年12月24日、日本初のコミュニティFM放送局「FMいるか」第一声の言葉だ。県域全体を放送エリアとする放送法が改正され、市町村単位でのFMラジオが運営できるようになった。この日を迎えるまで、相当な苦労があったと聞く。当時の社長、西野鷹志さんによると「函館山山頂は、ペリー提督が言うところの“テレグラフ・ヒル(電信の丘)”であり、各放送局の電波塔が林立する場所だったため、既存局からは大反対にあった」そうだ。電波障害の可能性はないのか、放送エリアが広くなりすぎるのではないかなど、調整は難航し、結局、当時コミュニティFMの出力上限は、法律上1Wだったにもかかわらず、FMいるかの出力は0.1Wからのスタートになった。

1992年 スタジオ

 観光事業を主幹とする函館山ロープウェイがなぜ放送事業を始めようと思ったのか。それは、西野社長の先見の明にある。コミュニティFMが法制化される前、海外視察先のサンフランシスコで音楽専門の小さなラジオ局を見学したそうだ。小さなブースの中で、一人でレコードを回しながらマイクに向かって話す姿に衝撃を受けたという。アメリカにあるものは、いずれ日本にも来る。ロープウェーの大型化と展望台改修で主幹事業に一定の目途が立ったタイミングで、天気に左右されない、地域を活性化できる事業としてラジオ放送事業を選択したのだ。
 0.1Wでの放送エリアは予想以上に狭く、函館山から2キロ程の函館駅を越えると音声が不安定になる状態だった。当時調べの函館市内世帯カバー率は16%だったが、その数字も怪しいと思えるほど放送エリアは狭かった。
 1993年7月に発生し、奥尻島を大津波が襲い大きな被害が出た北海道南西沖地震では、函館でも震度4を記録し、停電や道路の変形などの甚大な被害がもたらされた。FMいるかは、その様子を中継車で詳しく繰り返し伝えたが、聴取者からの反応は全くなかった。存在すら知られていない放送局の放送を、一体誰が聴くだろうか。それを目の当たりにした。聴こえない放送に広告を出してくれるところもなく、営業スタッフもかなり苦労したと聞く。放送エリアが拡大するまではそんな状況が続いた。
 潮目が変わったのは1995年6月のことだ。規制緩和により出力上限が1Wから10Wになった。相変わらず上限で運用することができなかったが、このタイミングで3Wに増力した。30倍になることで劇的に放送エリアが拡大、世帯カバー率は2.5倍の40%になり、その存在は一気に浸透していった。因みに僕がFMいるかに所属したのはこの年の7月だった。放送エリアは順次拡大され、今では本局出力20Wに加え、中継局が2局あり、函館市内の95%をカバーしている。更にインターネット放送で、地域を越えたラジオ人口は増殖中だ。

函館山ロープウェイ山麓駅内にスタジオ

地域住民の安全確保にコミュニティFM

 放送エリア拡大と並行して、防災という観点からも存在感を拡大していった。2004年9月8日に発生した台風18号は、半世紀前に北海道を襲った洞爺丸台風と同じコースを辿り、通過した“吹き返しの風”により市内各所で倒木・倒柱・倒壊などの被害と、全域で停電が発生した。FMいるかでは、身近な生活情報を中心に4日間に渡って災害放送を実施した。この4日間の反響は大きく、聴取者からの情報提供・メッセージは確認できるもので2,000通を超えた。私たちも、この時あらためて、災害時にラジオで身近な地域情報を提供することの必要性を実感した。
 2011年3月11日の東日本大震災発生時には、スタジオから津波の到達状況を見ながら避難を呼びかけた。最大波2.4mの津波を観測し、被害状況や生活情報を伝える31時間の災害放送を実施した。
 2018年9月6日に発生した北海道胆振東部地震・全道ブラックアウトの際は、函館圏の停電が完全に復旧するまで災害放送を継続し地域住民に寄り添った。総放送時間は69時間30分にもなった。もちろん災害は起きてほしくないが、災害放送を重ねながらコミュニティFMと地域住民との信頼関係を紡いできたことは間違いない。

人と人を繋げ、文化を育む地域メディアへ

 もちろん防災だけではない。万一の時に聴いていただくには、日頃からの放送が非常に重要である。地域文化振興の一助となるコンテンツを届け続けることも使命である。特にこだわってきたのが、市井の人々に番組出演していただくことだ。開局当時から放送しているコーナー「人ネットワーク」では、街の今を伝えてくれる人を介して函館の息吹を感じてもらうことを心掛けてきた。ラジオは人と人を繋げる役割も担っている。見ず知らずの人の送るメッセージに耳を傾け、自分と共通する価値観を見つけると、我々の知らないところで実際に会って交流が始まることも珍しくない。手軽なSNSで短文による交流だとどうしても慎重になり、交流しにくい高齢者も、オールドメディアのラジオだからこそ、耳なじみのパーソナリティの声を介して人柄が伝わるのだ。そしてコミュニティFM独特の距離感が、フェイス・トゥ・フェイスの繋がりになるのだと思う。エンターテインメントとしては、函館出身のアーティスト「GLAY」がいる。「GLAY」の函館愛は本当に大きく、これだけ故郷を大切にするアーティストは珍しい。事ある毎にFMいるかを介して故郷へ愛情を注いでくれている。

コミュニティFMの未来

 30年を振り返る中で、情報発信・収集の手段は劇的に変化し、ラジオがオールドメディアと化したのは事実だろう。若い人の中にはラジオを知らない人も珍しくない。しかし、人と人を声でつなぐラジオは、あたたかい温もりを持ち、その手軽さは不変だ。防災に特化する訳でもなく、娯楽に偏る訳でもなく、そこに生活情報と人を加えた四輪で前に進むことで、コミュニティFMの明るい未来が見えてくるはずだ。全国337局のパワーを信じ、これからも邁進したい。

開局30周年記念特別番組のスタジオ

プロフィール

宮脇 寛生 さん (みやわき ひろお)
函館山ロープウェイ(株)FMいるか 局長
1967年函館市生まれ。大学在学中からラジオ番組制作会社に所属し、NHK『ラジオ深夜便』の立ち上げから携わる。ラジオ畑にこだわり、主に同番組の送出・選曲を5年超担当。Uターン後、1995年FMいるか入局。プロデューサー等を経て、2017年4月から現職。