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HOME読む・楽しむ花は咲けども ~ある農村フォークグループの40年~ 山形訪問記 金田一 秀穂

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放送文化基金賞の受賞者へのインタビュー、対談、寄稿文などを掲載します。

2015年10月19日
第41回放送文化基金賞

ルポ

ラジオ番組 [最優秀賞]

「YBCラジオスペシャル
花は咲けども ~ある農村フォークグループの40年~(山形放送)」

山形訪問記

金田一 秀穂

 アマチュア・フォークグループ「影法師」の4人組は、2012年、震災復興支援ソング「花は咲く」のアンサーソングとする「花は咲けども」を作った。葛藤の末、作り上げた「花は咲けども」。影法師の思いを伝えた「YBCラジオスペシャル 花は咲けども~ある農村フォークグループの40年~」(山形放送)が、ラジオ番組最優秀賞を受賞。
 金田一秀穂ラジオ番組審査委員長が、番組を制作した山形放送と影法師のもとを訪ねた。

金田一 秀穂
(きんだいち ひでほ)
ラジオ番組審査委員長

伊藤 清隆さん
(いとう きよたか)
山形放送 報道制作局次長

伊藤 和幸さん
(いとう かずゆき)
山形放送 報道制作局 制作部 次長

 今から50年ぐらい前、若者たちの激しい政治の季節があった。今の若者はラップで反体制を訴えるらしい。あのころは、巷にフォークソングが溢れた。それまでの既成の枠組みを離れて、ギター一本あれば、自分たちで流行する歌が作れるのだと思ったと、北山修は述懐する。新宿西口の広場や若者のための深夜放送は、フォーク・クルセダーズや岡林信康、高田渡、加川良などの歌で席捲されていた。歌は反体制であると決まっていた。まさしく、「フォークソングがナイフみたいに時代を切っていた時代があった(須藤晃ラジオ部門審査員評)」。
 ユーミンや井上陽水がニューミュージックを始めて、若者の歌はメッセージのこもった強い政治性から離れていったように思う。しかしどっこい、山形に、残っていたのだ。おじさん世代にはきわめて親しく懐かしい音楽を取り上げた番組が、今回のラジオ部門最優秀賞を受賞した。「花は咲けども〜ある農村フォークグループの40年〜」、山形放送による。
 今年の放送文化基金賞の応募作は、一時のほとぼりが収まってきて、東日本大震災を取り上げたものが減った。地震も台風も、災害としては一時的である。過ぎてしまえば、忘れてしまう。何より次の新しい地震や台風が毎年のように襲ってくる。蓄積していったのでは被害を受けた人も助ける人も、心がもたない。しかし、福島の原発災害は、今も続いている持続した災害である。福島原発は、未来永劫に続く災害である。ラジオも、さまざまな工夫で、人々の心を呼び覚まそうとする。その中で光ったのが、これだった。
 影法師というのがグループの名前である。4人組。ふだんは農業をしている。その忙しい合間を縫って、自分たちで歌を作り、自分たちで歌う。平均年齢は還暦を越えている。見かけに似合わず、音が美しく、若々しい。媒体も今風で、集会以外ではユーチューブを使って拡散させている。
 この番組は、ギャラクシー賞もとった。放送文化基金の審査会には、ギャラクシー賞の審査委員だったという人もいて、ギャラクシー賞のパーティにも、影法師が招かれて歌を披露したらしいのだが、会場がうるさくて、あまり聞けなかったという。この番組が最優秀賞に決まったあと、贈呈式にはぜひ影法師を呼んでほしい、あの時はちっとも聞けなくて残念だった、と言われた。
 ホテルオークラの贈呈式で彼らが舞台にあらわれた時には、一瞬どよめきが起こった。来場者は、スーツやワンピースに身を包んだ、現代日本の錚々たるエスタブリッシュメントたちである。その多くの視線の中、彼らは顔も腕も黒々と日焼けしている。指先はごっつい。どの人もプロの音楽家の風貌ではない。ところが、演奏が始まると、会場がたちどころに好意的になったことがわかる。彼らの音楽をとてもうれしそうに聞いているのだ。恐ろしく反体制的なメッセージであり、聞き手にとっての日常の業務とは全く対立する内容を含んでいるのかもしれない歌であるにもかかわらず、受け容れてしまっているのがわかる。みな、自分たちが若かったころの、恥多く、しかし気持ちが輝いていたころを思い出せたのだろう。

 この番組で取り上げられた影法師の歌は、「花は咲けども」という作品である。NHKを中心に、「花は咲く」という歌が流されている。被害にあった人々への励ましの歌であり、美しい歌である。しかし、そこに偽善の匂い、アリバイ作りの匂いを感じ取る人もいる。本当に、被害を受けた人々の立場に立った歌なのか。その疑問から、「花は咲く」の返歌として、「花は咲けども」が作られた。
 影法師は、山形県の南部、置賜地方に根付いた集団である。
 白河以北一山百文、という言葉がある。明治維新のころ、薩長の官軍側が反官軍となった東北地方について、白河より北はほとんど価値のない土地であるとして、おとしめた言葉である。これを言った人は忘れているだろうけれど、言われた人々は執念深く覚えている。東北に住む人々にとって、反権力を標榜する逆のスローガンにもなっている。影法師も、この言葉から出発している。
 40年前に結成されてから、今まで、メンバーそれぞれが様々な経験を積んできているから、あの頃の単純な反体制ではありえない。しかし、都会の軽薄な風潮や無責任、自分勝手な思考には、頑強に抵抗する。毎日土に触れている人々の強さである。
 そして、この歌をつくった。一番は言う。
 「原子の灰が降った町にも/変わらぬように春は訪れ/もぬけの殻の寂しい町で/それでも草木は花を咲かせる/花は咲けども花は咲けども/春をよろこぶ人はなし/毒を吐き出す土の上/うらめし、くやしと花は散る」
 あの歌のように、花は咲いているけれども、それを見て春を喜ぶべき人がそこにはいないではないか、というのだ。
 番組では、山形にいて、福島の直接の被害者でもない自分たちが、それについて歌ってもいいのだろうかという、影法師の自問がある。そこで、番組のディレクターが、彼らに代わって、福島から避難してきた人々にCDを聞いてもらう。この歌こそが自分たちの気持ちだと、福島から逃げてきた人々は言う。
 福島から逃げている人々には、さまざまな事情がある。たとえば、自主的に避難してお金をもらっていない人と、補償金をもらった人たちの間では、複雑な葛藤があって、自分たちの苦境を訴えられない仕組みが出来上がってしまっているらしい。水俣その他の補償金などで問題になった人間関係の絡み合いが、ここにも生まれている。部外者であるからこそ、声をあげられると思った、と影法師の人たちから直接取材時に話を聞けた。
 二番はこのようである。
 「異郷に追われた人のことなど/知ったことかと浮かれる東京/己の電気が招いた悲惨に/痛める胸さえ持ち合わせぬか/花は咲けども花は咲けども/春をよろこぶ人はなし/毒を吐き出す土の上/うらめし、くやしと花は散る」
 東京で暮らしている人間にとっては、耳の痛いことである。「花は咲く」は、東京の人間にとっての歌なのではないかと、影法師は言う。
 三番は、言う。
 「一年、三年 五年、十年/消えない毒に人は戻れず/ふるさとの花恋焦がれて/異郷で果てる日を待つのか/花は咲けども花は咲けども/春をよろこぶ人はなし/毒を吐き出す土の上/うらめし、くやしと花は散る」
 かつて福島にいた人々は、みなどこかに逃げていった。災害はこのまま永遠に続く。一時帰宅の明るい話題が取り上げられるけれど、また、あまり人は言わないけれど、実はたぶん、一生帰ることができない。帰りたくない土地になってしまった。

行者菜のおひたし

 8月のある暑い日、山形市を訪ねた。番組を作った伊藤清隆さんと伊藤和幸さんに会って話を聞けた。清隆さんは50代半ば、フォークソングの流行をいくらか知っている世代、和幸さんはずっと若い。山形は殺風景ですねえ、という当方の失礼極まりない感想にも、たいへんやさしく受け答えしていただける。筆者よりずっと大人なのだ。
 地方の放送局の良さは、そのアーカイブにある。かなり以前からのテープだけでなく、取材者の間の時を越えた人のつながりがある。その蓄積をもとにして、番組を作ることができる。今回の番組も、そうした積み重ねがあって実現させられた。山形だからこそ作れる番組を作るのだ、という。地道な継続と、高い志を感じさせられる。その晩は、筆者としてはこの取材では珍しく二次会まで行ってしまった。
 翌日は、影法師の広報係を自認する遠藤さん宅に伺った。米沢を中心とした山形県南部、置賜地方にお住まいである。「ありがとう」を方言で「おしょうしな(恥ずかしい)」と言う、奥ゆかしくもやさしい言葉で知られる土地柄である。
 遠藤さん宅は、10ヘクタールの米の農地を持つ大農家であり、家屋も、冬には囲炉裏を出せる板襖の伝統的百姓家である。三世代全員6人で耕しているという。今は行者にんにくを改良した行者菜という野菜の取り入れの時期で、おいしいおひたしをご馳走していただいた。食べたことがない。こういう野菜に関しては、生産地が圧倒的に贅沢をしているように思う。
 歌詞を作る青木さんが理論派。横澤さんはトラクターを操りながら出来た詩に節をつける。この日来られなかった船山さんが唯一50代。遠藤さんは取りまとめ役で、社交的。「ひなた村」という農産物の通信販売を手掛けていて、取材の最中も注文のファックスがひっきりなしで途切れることがなかった。

遠藤 孝太郎 さん

青木 文雄 さん

横澤 芳一 さん

 40年前に、青年学級で知り合った仲間でグループを作り、二人は農業、二人は技術者系のサラリーマン。音楽は、アマチュア精神を守っているが、趣味というよりはもっと大切な活動で、軽のバンに四人で乗り、楽器も積んで、呼ばれれば暇を見つけてあちこち出掛ける。同じ年頃の人間として、うらやましいような暮らしぶりである。少なくとも、みなさん家族の理解に恵まれているようだ。
 かつて、音楽が時代を変えられると信じられた時があった。あれから40年、寝た子を起こすのが私たちのしていることだと言う。がむしゃらではない。独りよがりでもない。大人の成熟した経験知が、ゆとりを生んでいる。
 けれど同時に、かつて、音楽を聴いて、心が泡立つような、ひりひりするような刺激が確かにあったし、影法師を聞くと、その感覚を鮮やかに呼び起こされる。
 おみやげにお酒をもらった。福島で酒造業をしていた人たちが、設備いっさいを波に流されて、山形に避難してきた。たまたま空いていた置賜の酒蔵を借金して買い取り、山形のコメを使って、出来た酒がこれであるという。東北人同士のつながりが実現させた酒である。帰り道、稲の波が輝く農村が広がっていた。もしあの事故がなかったら、福島のあのあたりは今のこの置賜のような、美しく豊かな田園風景があったにちがいない。私たちがあの事故で永遠に失ったもののことを考えさせられた。