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オーディション番組と誹謗中傷―<選ぶ/選ばれる>エンタメの暴力性を問う
アイドル・オーディション番組が映す現代社会(第7回)
上岡磨奈(慶應義塾大学文学部非常勤講師)

“一億総プロデューサー面”の時代に
何かのオーディションに参加するということは、基本的に見られ、選ばれる立場になるということを意味する。こうしたオーディションにおいて権力を持っている人は必ずしも男性というわけではないが、時代を遡れば遡るほど、男性中心主義社会の中で、合否を決める社長やプロデューサーといった立場にある審査員の多くは男性であった。
2023年12月にNHKで放映された特集ドラマ「アイドル誕生 輝け昭和歌謡」では、阿久悠を中心とした1970年代初頭の日本の芸能界、音楽シーンがリアルに描かれていた。ふんぞり返った偉いおじさん達、全身に汗をかいて頭を下げる部下達、そして「アイドル」が売れるかどうか、少女達の魅力がどこにあるか、おじさんとおじさんが、いかに売れる「アイドル」を売り出すのか、あの手この手で競い合う――そんな「昭和」の雰囲気が非常に丁寧に描写されていた。
しかし、こうした構図の根幹は令和の今でも変わらないのではないだろうか。そして今、このおじさん達は『PRODUCE 101』シリーズを、『timelesz project -AUDITION-』を、『No No Girls』を見る私達、視聴者ではないだろうか。
2026年現在のオーディション番組では、審査員やトレーナーは男性ばかりでない。それどころか視聴者投票型の番組では、番組を見る誰もが審査員であるという形式を取り、実際に<選ぶ>権利が視聴者にも与えられる。そして審査員という大義名分のもとに、誰がいいか、誰が合格すべきか、と盛り上がるにとどまらず、誰が下手だ、誰がブスだ、と執拗なまでに出場者へのネガティブな評価を声高に叫ぶ。
<選ぶ>立場、特に何の責任も持たずにオーディション参加者を評価する立場には、ある種の快楽がつきまとう。プロデューサー気取りで、どのアイドルが売れるか、このアイドルの魅力はここだ、と他の視聴者と争いながら票を入れる様は、アイドルを語り、アイドルを論じる昭和のおじさん達そのものであるが、そうした楽しみを、立場を問わず、ジェンダーを問わず、誰もが手にいれられるようになったということは良いことなのだろうか。“一億総プロデューサー面”とでもいうような視聴者の態度は、もはやシミュレーションではなく実際の結果に少なからぬ影響を与える。そこでいつまでも<見られ>、<選ばれ>ているのは誰か。
歌詞を覚えていない参加者を視聴者は叩いていいのか
オーディション参加者は文字通り、人生を賭けて、オーディションに参加する。多くの時間を使って、自身の芸を見せるのみならず、歌やダンス、演技のパフォーマンスから漏れ出る人間性や人柄をもジャッジされ、合格に値する人間か否かを言い渡される。こうした一連の審査だけでも負担は大きいが、番組となるとより多くの人の耳目に晒される。特にインターネットとSNSによってダイレクトに視聴者の言葉が誰にでも簡単に届いてしまう時代に、炎上とオーディション番組は分かち難くなっている。
オーディションの結果はもとより、そうしたネガティブな声が参加者の人生を左右するということに番組製作者も視聴者ももっと目を向けるべきではないか。『timelesz project -AUDITION-』、通称タイプロでは、参加者(候補生)の氏名やプロフィールを明記した状態で審査の様子が公開されたものの、早々と二次審査で不合格となった参加者も多くいた。その中には、明らかに審査の水準に満たない部分、つまり技術面や受け答えでの稚拙さをクローズアップされる形で紹介された参加者も少なくなかった。
同番組はオーディションの様子を放送しているが、視聴者が審査に加わる形式のオーディション番組ではない。しかし、グループの既存のファンにとっても大事なオーディションとされ、ファンが納得する人選という点でファンからの評価も誘発する内容ではあった。参加者らの稚拙な演技や発言、振る舞いが「切り抜き」動画となって拡散され、歌詞があやふやなまま審査に臨んだ参加者に対するメンバーの厳しいコメントは、流行語にもなった。叩いた人は<選ぶ>立場としての正義感すら掲げるだろうが、オーディション中に不用意な発言や振る舞いをしたことがどれだけの悪行だと言えるのだろうか。
正義のリンチは何を生むのか
こうした過度のジャッジは番組終了後も続く。タイプロに限らず、デビューしたとしても「なぜお前がデビューしたんだ」という身も蓋もない物言いがつけられるというケースが頻繁に起こっている。過度の誹謗中傷によって活動休止や脱退に追い込まれたのでは、という憶測が自然に感じられることもある。オーディションというシステムの、また番組の性質上、視聴者はついものを言いたくなるだろうが、参加者の技術や容姿に対して、視聴者という立場から「ブス」や「下手」という言葉を投げつけることに抵抗を感じられなくなっている傾向が強いのではないかと考えずにはいられない。
審査員が強い言葉で苦言を呈しているのだから、と番組の中の審査員と自分を同化させ、視聴者にも同様の発言が許されるかのように取ってしまう。そもそも審査員や番組内の登場人物によるコメントは既に番組内の演出に利用されており、実際にその発言の前後に何が起こったのかを正確に視聴者が知ることはない。あえて厳しい発言を際立たせるような編集が加わっている可能性もあるし、もちろんカメラに映らないところで起きていることは知る由もない。
それでも番組を視聴していることで、どこか知った気になってしまう。結果、視聴者である自分には/にも、ジャッジする権利があると正義感で発した言葉が誹謗中傷になっていることにも気付かないのではないか。視聴者はただ安全なところから気軽に無責任に評価を下すのみで、「ブス」や「下手」を淘汰してやったと悦に入るばかりだ。
オンラインの誹謗中傷や炎上について論じる経済学者の山口真一は、炎上させる人達を「極端な人」とし、その行動の背景にある正義感や使命感を指摘する(注1)。オーディション番組の「極端な」視聴者の中にも同様のメカニズムがありそうだ。山口によれば、対象者を死に追いやって初めて、加害者が自分であることに気付いたというケースもある。自分自身の中の価値観や基準による偏った視点から逃れる難しさを痛感する。

他者からの無責任なジャッジに対する「No」の試み
ラッパーのちゃんみなをプロデューサーに迎えて開催されたオーディション番組『No No Girls』、通称ノノガは、選考という手続きにつきまとう他者からのネガティブなジャッジに真っ向から対峙する企画の一つだった。ちゃんみなは「No」に託される意味としてアーティストに求める3つの「No」、「No FAKE(本物であれ)」「No LAZE(誰よりも一生懸命であれ)」「No HATE(自分に中指を立てるな)」を示した。こうしたコンセプトの背後の一つには、他者からの無責任なジャッジがある。
容姿を含む、エンターテインメントにおける評価に内包されたステレオタイプ的な規範、年齢、体型、また世間や社会で求められるパフォーマーのイメージなど、(多くの場合)若い表現者達に押し付けられる願望や期待は、個人や個性の否定に繋がっていく。ちゃんみなも自分自身同じ経験をしてきたことをカメラに、また参加者に語り、ステージに立つ時に問われる「自分」というコアが他者からのジャッジによって否定される理不尽さを問い続けた。知名度の高いオーディション番組に出演した経験を持つ参加者のラップでは、顔もわからない誰かからの「No」への怒りを思わせるようなリリックが印象的だった。そうした匿名の攻撃から参加者を守る配意もあってか、同番組では参加者の本名と年齢は明かさずに進行した。
しかし、オーディションの性質上、ここでも誰かが選ばれ、誰かが落とされる。象徴的なのは、三次審査の結果を伝えた後、通過できなかった参加者を集め、方向性が違っただけで「ダメ」ではないということを真摯に伝えるちゃんみなの姿だ。『ノノガ』のNoをYesにするチャレンジは、完璧に達成することは難しいがそれでも誰かの抱えるNoを丁寧に扱ったという点で成功に限りなく近かっただろう。

<選ぶ>側に立つということ
かつて振付演出家の竹中夏海は、『PRODUCE 101 JAPAN』シーズン3の開催に際して、オーディション番組における参加者の精神的な負担の大きさに触れながら、求められる視聴者のリテラシーについて「候補者はオーディション期間中、自分の人生を懸けて戦う姿を世界中に晒しつづけることになるのだ。ネットを介してリアルタイムで届く声に、文字どおり、生かしも殺されもする可能性があることを、視聴者全員が自覚しなくてはならない」と注意を促した。(注2)
アイドルを取り巻く世界の根幹は昭和に取り残されたままかもしれない。しかし、少しずつ、現場から、また<見る>側から、違和感を指摘する声はあがり始めている。誹謗中傷の声ばかりが目立つのは「炎上」の特徴であると山口も述べているが、疑問を投げかける視聴者のポストも数多く存在する。
また山口は、「極端な人」を「満たされていない人」と分析する。先が分からず、不安定な状態の続くオーディションという場は、見ている人をも不安にさせるのだろう。応援していた候補者が脱落し、気に入らない候補者が合格するということは起こり得るし、そこには「満たされない」虚無感があるかもしれない。そもそも芸能界でのキャリアは常に先行き不安で見通しが立たず、見ている人に必ずしも幸福感を与えない。そうした困難をも承知でオーディションを番組としてパッケージングすることにどのような意味があるのかも考えたい。
課題に向き合って一歩ずつでも変化を求める道程は快楽とは程遠い。だからこそ私達は声を上げ続けなければならない。『ノノガ』の参加者たちが非常にストイックに「自分」に向き合うことを求められていたことを思い出す。それは誰かのコンテンツではない人生を取り戻す作業だったのかもしれない。<見る>側も「自分」に、「人生」に向き合うことで変われるだろうか。
(注1)山口真一, 2020, 『正義を振りかざす「極端な人」の正体』, 光文社.
(注2)https://qjweb.jp/regular/93936/ 「「日プ女子に笠原桃奈が参戦」ハロヲタが抱えてきたジレンマと視聴者が心得るべきこと」2023年9月5日更新、「竹中夏海のアイドル現代学」クイック・ジャパンウェブ(最終アクセス2026年3月12日)
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プロフィール

上岡磨奈(かみおかまな)
1982年、東京都生まれ。博士(社会学)。専攻は文化社会学、カルチュラルスタディーズ。単著に『アイドル・コード』(青土社)、共著に『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』(青弓社)、『アイドル・スタディーズ――研究のための視点、問い、方法』(明石書店)など。

本書は、2020年度に放送文化基金が助成した研究「アイドルオーディション番組の総合的研究」の成果をまとめたもの。
『スター誕生!』『ASAYAN』などの歴史的な番組から海外の事例までを体系的に整理し、「オーディションを通して社会を考える」という新しい切り口で論じた初の“オーディション・スタディーズ”。
アイドル文化やメディア研究に関心のある方におすすめの一冊です。
- 編著者:太田省一 / 塚田修一 / 辻泉
- 発行所:青弓社
- 発行日:2025年9月2日
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