HBF 公益財団法人 放送文化基金

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放送文化基金について

設立40周年記念寄稿③

2014年に40回目の放送文化基金賞を迎え、番組部門のテレビドキュメンタリー番組、テレビドラマ番組、テレビエンターテインメント番組、 ラジオ番組、そして個人・グループ部門の放送文化、放送技術の6名の委員長に各部門の10年を振り返っていただきました。

テレビドキュメンタリー番組部門
テレビドキュメンタリー審査参加への感謝と自戒の思い
吉田 喜重 委員長

 放送文化基金設立40周年にあたる本年も、放送文化基金賞コンクール、テレビドキュメンタリー番組部門の審査に関与し、委員長を務めさせていただいた。
そして私自身、この職務をお引き受けしてから10年目でもある。
 もっとも私が同コンクールの審査に加わるようになったのは、70年代の後半、まだテレビドキュメンタリー、テレビドラマ、ラジオ部門といったジャンルの区分けのない、コンクールというよりも良い番組を顕彰するためのものだったが、それからでもすでに35年以上が過ぎている。
 この期間、私はドラマ部門の審査、さらにテレビエンターテインメントの審査も兼任してきた。何故これだけ長いあいだ、請われるままに続けてきたのか、それは審査にあたることで多大なる恩恵を私自身が享受できたからにほかならない。
 毎年コンクールに応募するおびただしい作品を見ながら、その年に何が起こったのか、何が問題視されたのか、それを審査の過程でいま一度追体験しながら、みずからが生き合わせたこの時代のありようを、改めて確かめることができたからである。
 もちろん、毎日休むことなく放映されるテレビ番組を視聴すれば、われわれが生きつつある時代を刻々と知ることができるだろう。それはテレビのニュースにかぎらず、テレビドラマ、テレビエンターテインメント、ラジオ番組であっても、その時代の現実がたえず反映しているのは言うまでもない。しかし、時間に追われるようにして、しかも大量に放映されつづける番組を注意深く、しかも総括的に見ることが許されるコンクール審査の場を、私がかぎりなく愛してきたことをご理解していただけるに違いない。
 いま改めて私が担当した、この10年のあいだのテレビドキュメンタリー・コンクールを振り返って見るとき、もっとも鮮烈な記憶としてよみがえってくるのは、東日本大震災のドキュメンタリー作品であった。
 それはドキュメンタリー作品というよりも、ただ現実が映し出されているニュースであり、しかもテレビカメラがそこにあったが故に、思わずカメラを手にした取材者が、身に迫る危険を忘れ去って襲いかかる津波の凄まじい光景を、ただ本能的に撮らざるを得なかった記録であった。従って、ドキュメンタリー作品として製作されたというより、想像を絶する露わな現実が映し出されているだけであり、製作者の意図、思考が加わる余地がない、いわばドキュメンタリー作品の、その存在理由を問いかけ、その虚しさを突きつけるものであった。
 日本のテレビドキュメンタリーの歴史を支え、それを深化させてきたのは、いうまでもなく戦争、原爆の悲惨さであることに、誰しもが同意するだろう。しかしテレビドキュメンタリーが描いてきたのは、まのあたりにする過酷な現実ではなく、すでに時間が経過し、余裕をもって批判的につくられた映像であり、あくまでも現実より遅れて表現された再現に過ぎない。しかも過酷に襲いかかる現実を捉えて追求、解説することができるのは生き残った人間だけであり、本当の過酷な現実を知っているのはその犠牲者、死者たちであることを意味している。
 いま改めてテレビドキュメンタリーとは、過酷な現実より生き残ったわれわれがかろうじてその死者たちの声に耳を傾け、その思いを伝える表現にすぎないことを、東日本大震災を契機に私自身、コンクールの審査に当たってみずから戒める言葉にしたいと思う。

(2014年9月30日)