上記2本の作品を視聴後、それぞれの制作者が自らの作品を語り、会場参加者と意見交換を行なった。
後藤氏は、「東京勤務となり、北海道をしばらく離れて感じた大都会と地方の温度差を、夕張市破綻問題を切り口に、石炭を通して描くことにした。廃坑により石炭景気が過去となり、市が財政破綻に至った夕張、日本人炭鉱マンの指導により、炭鉱開発の最前線となっているベトナム。日本は過去最高の石炭消費量を記録しているのに、その恩恵を最も多く受けている東京の人々はこの事実を知らない。一見関係が無いように見えるこのこの3地点を線で結ぶように編集した。活字の行間を読むがごとく表現し、視聴者に想像の余地を残し、自分が取材で感じたことを伝えたかった」と語った。
本田氏は、「最初は水俣病の検証番組の制作と考えていたが、資料を調べているうちに、水俣病第3次訴訟で、初めて行政の責任を認めた熊本地裁の当時の裁判長、相良甲子彦氏を知り、この人を中心にした番組にし、当時の関係者に焦点をあて、今までとは違う角度からの水俣病を描いてみることにした。原告・弁護団から今も敬意をもって『相良判決』と呼ばれている相良氏と彼を精神的に支え続けた山口主任書記官らのインタビューを主に構成した。病に苦しむ患者の映像などは多用せず、視聴者に判断をゆだねたかった。相良氏との信頼関係を築くため、連絡は書簡のみ。それも何度も読み直してから投函した」と語った。
会場との意見交換では、「石炭が、現在大量に消費されている事実には驚きと衝撃を受けた。石炭は過去のエネルギーと思っていた」「これまでに見てきた水俣病の報道とは違う角度からの水俣病が見えた。裁判で、人が人を裁く事の難しさが映像を通してよく伝わった」などの感想が出た。
また「番組の終わり方に対する考えは?」の質問に対して、後藤氏は「ナレーションは一見静かに終わらせているようだが、最後の数秒は映像にこだわった。一瞬の映像の中に過激なメッセージを含み、映像を重ねることで自分の主張にした」と語った。本田氏は「インタビューで得た事実関係をナレーションにして、視聴者に“投げ出し”、考えてもらえるよう“あずけて”終えた」と語った。 |