多抱多想-たほうたそう-
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放送文化の危うさ

福原 義春 (資生堂名誉会長、 日本広告主協会会長)

 かつて放送文化基金の中山伊知郎初代理事長は、当基金の機関誌HBF創刊号の巻頭言で、放送文化について堂々たる所論を展開された。その論点の後段は放送技術の進歩と放送文化の概念の柱となる内容との統一に大きな努力を払わねばならぬという主旨であった。それはまさに放送文化と云う領域の将来を考えたときの大きな前提を提示されたものであった。
 所が現実は必ずしもこのような正論を実現して来たとは思えない。技術の進歩は放送に関する機器の性能の進歩や、軽量化などあらゆる面で図られ、その結果アマチュアまでがビデオジャーナリストとして重要な瞬間を記録し、また個人のプライバシーすれすれの境界にまで踏み込みかねない状況になってきた。
 一方で内容すなわち、いわゆるコンテンツに含まれる基本的な哲学や研究は進歩しているのであろうか。もちろん別な領域でのメディアの進展、たとえばネットによる情報検索が容易になったとか、常にアップ・ツー・デートの情報が入手できるなどの情報環境の変化は大きなものがあった。しかしそれによって伝えるべき思想がゆたかになったのであろうか。むしろ安直にコンテンツがまとめられるので、それが技術の進歩と表裏一体となって放送文化を確固たるものにしたかどうかには疑問がある。かって一億総白痴化のキーワードに喩えられたようにはならなかったとしても、「送りっ放し文化」が人々の考える力を失わせ、平均的なライフスタイルの裾野を拡げたこともあろうかと思う。
 さらに私たちは経済成長という栄養価も高いが、副作用の伴うものを食べて肥りすぎになってしまった。このかって通過した世界ではすべてが貨幣価値で評価され、直接貨幣価値に表示することのできないものは代用数字で評価されることを誰もが不思議に思わなかった。そしてこれらの数値こそが社会での評価を定める唯一の基準となった。
 もし放送が社会全体に影響を与えたというならば、それを数値化して実証しなければ空論という批判を受けるだけだったことだろう。
 何よりも視聴率と平均的な視聴者像の関係についてみんなが熱中した。いつものことだが、単なる平均値には全く該当する個がないという可能性も無視された。CM放送料は時間帯視聴率によって一義的に決定された。それはまた放送権者による独占的市場の構造であり、このような市場構造ですぐれたCMが育つことを期待するのも無理なことであろう。
 放送文化を本気で考えるなら、それを支える理念、社会の人々とのかかわり、定性的な評価の姿を原点に立ち戻って考え直す必要がある。
 ディジタル技術の発展で双方向化が進もうとする今こそ、既成の価値概念に大鉈を振るう好機である。文化を論じるのであれば、貨幣価値や止むを得ず使っているはずの単なる代用数値の側面だけを見ることから脱却しなければならない。


<執筆者のご紹介>
福原 義春(ふくはら よしはる) 資生堂名誉会長、日本広告主協会会長

 1931(昭和6)年東京生まれ。53年慶應義塾大学卒業後、資生堂に入社。87年第10代社長に就任。経営改革、社内の意識改革を推進。97年より会長、2001年より名誉会長を務める。(社)企業メセナ協議会会長、(社)日本広告主協会会長、東京都写真美術館館長など公職多数。
 主著に、「企業は文化のパトロンとなり得るか」「生きることは学ぶこと」「会社人間、社会に生きる」など。