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「放送文化と活字文化」

下村 満子 (ジャーナリスト)


 永い間、新聞や雑誌という活字媒体で仕事をしてきたものにとって、放送という媒体はライバルでもあり、同時に兄弟みたいな関係でもある。
 私は、新聞記者時代、インタビューを手がけることが多かったが、「ああ、これが活字でなく、テレビやラジオだったらなぁ」と何度も思ったことがある。活字で表すことが最も難しい「表情」や「声音」や「話しぶり」を、テレビやラジオは楽々と伝えてしまう。何千字を費やすよりも、人の表情は沢山のことを伝えるし、話しの間とか声色、時に言い渋ったりといった、耳からの情報も、到底活字はかなわない。放送というのは、それだけ強烈なインパクトを与える武器でもあり、文化でもある。が、それゆえに、放送は使い方を間違えれば、その及ぼす害も大きい。
 放送は、見る、聞くといった、論理よりも直接感覚に訴えるメディアだから、見る人、聞く人に、「真実だ」という確信を与える。が、例えばテレビの写し出す映像は、いわばジグゾーパズルの一コマみたいなもので、真実のほんの一部分に過ぎない。あるいは真実の核心の部分ではないかもしれない。イラク戦争や戦後の様々な情勢についての映像も、イラクのどの部分を切り取るかによって、まるで違うものになる。でも、人びとは放送で見たものを、そのまま信じる。
 一方活字文化は、文字で文章を構成する事から始まる。感覚より論理と思考の世界だ。文章を書いたり読んだりしていると、自分の思考や論理の矛盾を嫌でも突きつけられ、物事をじっくり考える良い訓練になる。だが、活字だけに浸っていると、首から上だけの観念論に陥り、感性に欠ける人間になりやすい。要は、この両者のバランスをいかにとっていくかということなのだが、私が心配しているのは、このバランスがいま、あまりにも崩れてはいないかということである。
 テレビには暴力、殺人、セックス、下品なドタバタお笑いなどが溢れかえり、人間の本能や五感を異常に刺激することばかりで、情操を豊にする文化は育っていない。一方、若い人達の間では活字文化に親しむ人達がどんどん減り、幼稚で舌足らずな言葉による携帯メールは飛び交っているが、物事をじっくり考えたり、思考や論理を組み立てる能力は衰退している。これは危機ではないか、と思う。
 放送というメディアは、本来素晴らしいポテンシャリティーを持っていると思う。活字では到底及ばない可能性を持っているのに、まだ十分に満足できる放送文化のレベルに達していないのではないかな、と残念に思っている。これはだれの責任でもない。放送にたずさわる方達の責任もあるけれど、放送を享受する私たち一人一人の責任だと思う。文化を育てるのは、私たちであり、その国の文化はその国の人びとのレベルを反映しているというのは、本当だと思う。
 放送文化は、これからが勝負である。


<執筆者のご紹介>
下村 満子(しもむら みつこ) ジャーナリスト

 東京生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。ニューヨーク大学大学院修士課程修了。1965年朝日新聞入社、「週刊朝日」記者、朝日新聞ニューヨーク特派員(日本で初の女性駐在特派員)、「朝日ジャーナル」編集長、朝日新聞編集委員などを経てフリーのジャーナリストに。1987〜1988年ハーバード大学ニーマン特別研究員。
 現在は、健康事業総合財団理事長、医療法人社団「こころとからだの元氣プラザ」理事長、経済同友会副代表幹事、福島県男女共生センター館長他、多数の役職を務める。またボランティア活動として、政治の分野に進出することを目指す女性を支援するための組織「WIN WIN」では副代表を務める。
 主著に「ハーバード・メモリーズ−アメリカのこと・日本のこと」「編集長・下村満子の大好奇心」「いい男の時代」「成功の条件」などがある。